鶴嶺神社
島津家は、鎌倉時代のはじめである文治元年(1185)から、明治2年(1869)の版籍奉還まで、約700年にわたり南九州を治めた武将の家系です。
鶴嶺神社は、島津家歴代当主とその家族を奉祀するために、明治2年に創建されました。最初は鹿児島市内坂元町山下鶴嶺(現在、同市照国町の島津斉彬公銅像の地)に建ち、明治6年(1873)県社に列せられています。大正6年(1917)、島津家30代忠重によって、現在地に遷座、御社殿が造営されました。昭和10年(1935)、天皇陛下の地方行幸の際に幣帛料を賜っています。
御祭神の中には、武勇・善政で名高い当主や、美しく聡明であった姫君(持明院様)が名を連ねることから、広く崇敬を集め、現在に至ります。
奥にある御本殿は流造、手前側拝殿は入母屋造で、鳥居は神明鳥居です。
宝 物
太刀銘備前国住雲次
(国指定重要文化財)
赤糸威大鎧(アカイトオドシオオヨロイ)
(国指定重要文化財)
初代島津忠久公御着用のもの
御木像
(県指定文化財)
第九代島津忠国公
第十一代島津忠昌公の二体
境内案内
島津家歴代当主、そしてその家族らが祀られている「鶴嶺神社」。この神社の御祭神のひとりである亀寿姫(=持明院様・じめさあ)は、豊臣秀吉に捕らわれた際、秀吉も驚くほどの美貌であったと言われており、さらに心優しく賢明だったことから、ここで参拝することにより心身ともに美しくなるとも言われている隠れたホットスポットです。

源頼朝公御石塔
島津家初代忠久は、源頼朝の庶子と伝わっています。 江戸時代、鎌倉にある源頼朝の墓所荒廃を嘆いた島津家25代重豪は、玉垣を新造し、多層塔を移すなどして、頼朝公の墓所を再興しました。 頼朝公没後800年の折、鎌倉市民有志の会によって「源頼朝公墓所再興報恩塔」として、神社前の雛形塔が寄進されました。
溶鉱炉跡
溶鉱炉は、鉄鉱石・砂鉄を溶かして銑鉄を生産するための炉です。 嘉永5年(1852)、薩摩藩主島津斉彬は、オランダ陸軍のヒュゲニン少佐が著した「ルイク国立鋳砲所における鋳造法」を参考に、我が国で初めての溶鉱炉をこの地に建設しはじめました。溶鉱炉は安政元年(1854)に完成、吉田(現宮崎県えびの市)産の鉄鉱石、志布志・頴娃産の海砂鉄を原料に鉄が生産されるようになりました。 安政4年(1857)、溶鉱炉を視察した佐賀藩士千住大之助らの記録には、溶鉱炉は高さ22 尺(約6.7m)、横幅11尺(約3.3m)と記されています。その位置は鶴嶺神社の境内と推定されています。また山手には、送風用の水車ふいごに水を配給するための水路跡が残っています。

水師営ナツメの木
明治38年(1905)の日露戦争での日本の勝利は、アジアやアフリカで祖国の独立、解放の 為に戦っている人々に大きな勇気を希望を与えました。右奥の「戦捷記念碑」の前のナツ メの木は、旅順開城の時、乃木大将とロシアのステッセル将軍が会見した水師営の民屋に あった一本の棗(ナツメ)の木の実から育てたものです。

献木 狭野杉
宮崎県高原町の狭野神社には、島津家17代義弘公の命で挿木奉納された杉から成る、杉並木があります。この杉並木は、大正13年(1924)に国指定天然記念物に指定され、杉の老木に営巣する瑠璃色の鳥「仏法僧」とともに愛されています。 平成5年(1993)狭野神社より、義弘公奉納杉の二代目が献木されました。
鶴嶺神社について
鎮座地
鹿児島市吉野町9698-2
御祭神
島津家歴代当主とその家族
玉里島津家歴代当主とその家族
主な祭日
鶴嶺祭(1月31日)
例大祭、春季大祭(祈年祭 3月1日)
夏祭・六月灯(7月18日)
秋季慰霊祭(秋分の日)
秋季大祭(新嘗祭 11月1日)
持明院様頌徳慰霊祭(11月5日)
宝物
国指定重要文化財
太刀銘備前国住雲次
赤糸威鎧兜・大袖銀杏付
県指定重要文化財
島津忠國木像
伝島津忠昌木像